いいんですよ

トピック「ベビーカー」について

と、おれは答えた。おれの前には、品のよさそうな三十代後半くらいの夫婦がいて、

ベビーカーを押しながら、通路を通ろうとしていた。

 

各駅停車の「こだま」号というのは、昼間はガラガラである。おれは、二人掛けの

シートを向かい合わせにして、四人掛けのボックス席をつくり、ひとりで占領してい

た。いや、正確には今、トイレに行っている、おれの彼女と二人でこの四人掛けの

ボックスを使うつもりだった。

 

おれは、何故か、その日通路側の席に座り、足を投げ出して、目を閉じていた。理由

らしいものは無かった。そんな気分だったから、としか言いようがない。足に何かが

当たり、おれが目を開けると、そこにはベビーカーがあった。

「どうも、すみません」

男性のほうが詫びを述べ、おれは

「いいんですよ」

と、答えた。

 

悪いのはこっちかもしれない、と思ったおれは、隣の三人掛けシートを向かい合わせ

にして、六席のボックスをつくり、

「こちらにベビーカーを」

と言った。何だかお節介だな、我ながら、と思ったが、何故かその時は、親切にした

かった。

「あ、これは、どうも」

と、男性が言って両手の荷物を棚に上げ、女性が片手に持っていたボストンバッグ

も受け取って、棚の上に上げた。女性は礼も言わず両手でベビーカーを、六席ボック

スの奥に押し入れ、中の子供を抱き上げた。

 

子供は、人形だった。

 

「おまえは、ここに・・・」

と言って、女性を六席ボックスの中央に掛けさせ、男性が、

「ちょっと、失礼します」

と、おれの前に座った。

 

「妻は子供を亡くして以来・・」

と、静かな声で男性が、おれに言った。

「お気の毒に・・」

おれは、同じくらい小さな声で答えた。

 

「まあ、可愛いお子さん」

と、彼女の声がした。トイレから戻って来たのだ。

「女の子ですか?」

「ええ、もうじき一歳なんです」

女性が答えた。

 

おれも男性も驚いていた。

 

彼女は六席ボックスに座り、女性と人形の相手をしていた。

「あの方は私の妻のことをご存知なのですか?」

と、男性がおれに尋ねる。

「いや、知らないと思います」

おれが、答えると男性は困ったように

「もし、妻がからかわれているのだとしたら・・・」

「いや、彼女は、そんな性格じゃありません」

「・・しかし」

「・・ここは、静かに様子を」

「・・そうですね」

 

三つ目の駅で夫婦は降りて行った。おれと彼女だけが残った。その車両は他には、もう、誰も乗っていなかった。

「あの夫婦の子供・・」

「人形だったわ」

「知っていたのか?」

「ええ」

「知ってる夫婦だった?」

「いいえ」

「じゃあ、どうして」

小林秀雄の随筆、載ってたじゃない。去年の冬期講習、現国のテキストに」

「ああ、思い出したぜ」

「で、ちょっと、やってみた」

「しかし、そんなにうまくできるものなのか」

「女は話を合わせるの、得意なのよ」

 

おれたちが、その次の駅で降りようとした時、見覚えのあるものが目に飛び込んでき

た。乗客用紳士トイレの隣側、洗面コーナーのカーテンが半分開いていて、あの

夫婦が使っていたベビーカーが見えた。ホーム側のドアの方を見ると、あの人形の

足が、デッキのゴミ箱からはみ出していた。